【斗南藩ゆかりの地探訪】(6)倉沢平治右衛門屋敷跡(五戸町)

「中ノ沢塾」が開かれていた倉沢平治右衛門の屋敷跡。優秀な門下生を多数輩出した=五戸町中ノ沢
「中ノ沢塾」が開かれていた倉沢平治右衛門の屋敷跡。優秀な門下生を多数輩出した=五戸町中ノ沢
斗南藩の最初の藩庁となった旧盛岡藩五戸代官所跡から南西に約1キロ。五戸町中ノ沢の木々が生い茂った小高い丘に、会津から移住してきた倉沢平治右衛門の屋敷跡がある。 倉沢は会津藩時代、公用方として藩主の松平容保(かたもり)を補佐し、容保からの信頼.....
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 斗南藩の最初の藩庁となった旧盛岡藩五戸代官所跡から南西に約1キロ。五戸町中ノ沢の木々が生い茂った小高い丘に、会津から移住してきた倉沢平治右衛門の屋敷跡がある。[br][br] 倉沢は会津藩時代、公用方として藩主の松平容保(かたもり)を補佐し、容保からの信頼が厚い人物だったとされる。戊辰戦争に敗れた後は、斗南藩の小参事に就任し、海路で東京から八戸に入った藩士たちの移住を指揮。藩の領地のうち、五戸方面を取り締まり、入植者の世話に奔走した。生糸取りや真綿作りを指導するなど産業振興にも努めたという。[br][br] 倉沢が五戸に移り住んだのは46歳の時。中ノ沢に構えた家には家族12人が住み、コイを飼ったほか、栗やクルミなどを育てて飢饉に備えたという。倉沢の屋敷周辺には約20軒の集団住宅が建てられ、一帯は「会津村」などと呼ばれた。[br][br] 斗南藩は1871(明治4)年7月の廃藩置県により消滅したが、倉沢は1900(明治33)年に76歳で生涯を終えるまで五戸に残り、青少年の教育に尽力。今に至る「教育の町」の礎を築いた。[br][br] 屋敷の一室に私塾「中ノ沢塾」を開き、20年以上にわたって旧会津藩士の子弟や地元の少年たちに四書五経の素読などを指導。門下生は500人以上に上り、後に衆議院議員となった中川原貞機(ていき)や思想家江渡狄嶺(てきれい)、五戸町長を務めた金澤治郎ら優秀な人材を数多く輩出した。塾は無償で教育を授け、門弟たちは農作物の栽培やまき集めを手伝うなどして恩に報いたという。[br][br] 屋敷跡の周辺には現在、町文化協会が設置した説明板があり、倉沢がたどった足跡の一端をうかがい知ることができる。門弟の縁者らで組織する「五戸会津友の会」副会長で、屋敷跡を管理している戸田光夫さん(61)は「倉沢先生が住んでいた場所だということを広くアピールし、功績を後世に伝えたい」と話す。[br][br] 【中ノ沢で暮らした斎藤一】[br] 倉沢平治右衛門の住宅敷地内には、斎藤一の名で知られる元新撰組幹部の藤田五郎も居住していた。戊辰戦争終結後に斗南藩が立藩すると、1870(明治3)年に五戸に移住。ただ、斗南時代の藤田の生活に関しては史料が少ないため、いまだ不明な点が多い。その後、倉沢の養女時尾と結婚した藤田は、警視庁に入庁し、西南戦争などで活躍した。五戸に住んでいたのはわずかな期間だったが、剣客の生涯を追って倉沢の屋敷跡を訪れる新撰組ファンもいる。「中ノ沢塾」が開かれていた倉沢平治右衛門の屋敷跡。優秀な門下生を多数輩出した=五戸町中ノ沢