【衆院議長在任最長】国会対策のエキスパート 与野党から厚い信頼、震災復興にも尽力

衆院議長に就任し、初めて地元入りした大島理森氏(右)=2015年4月、JR八戸駅
衆院議長に就任し、初めて地元入りした大島理森氏(右)=2015年4月、JR八戸駅
大島理森衆院議長(74)は、1983年に青森県議から衆院議員に転じて以来、計12回の当選を重ねてきた。自民党の幹事長や国会対策委員長など党の要職を歴任し、国会対策のエキスパートとして与野党に幅広い人脈を持つ。東日本大震災後は、党復興加速化本.....
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 大島理森衆院議長(74)は、1983年に青森県議から衆院議員に転じて以来、計12回の当選を重ねてきた。自民党の幹事長や国会対策委員長など党の要職を歴任し、国会対策のエキスパートとして与野党に幅広い人脈を持つ。東日本大震災後は、党復興加速化本部長を務め、震災復興に尽力。衆院議長に就任後は、前天皇陛下(上皇さま)の退位に向けた特例法の与野党協議をまとめるなど手腕を発揮。2017年衆院選後の特別国会では異例の再選を果たすなど、与野党から厚い信頼を得ている。[br][br] 大島氏は75年、急逝した元県議会議長の父の地盤を継ぐ形で政界入り。県議2期目途中の80年に衆院選に挑んだが落選し、83年12月の衆院選で中選挙区時代の旧青森1区で初当選した。以来、同じく八戸市が地盤の元参院議員田名部匡省氏らと“八戸戦争”と呼ばれる激しい選挙戦を繰り広げることとなる。[br][br] 90~91年に海部俊樹首相を内閣官房副長官として支えたのを機に頭角を現し、95年には村山富市内閣の環境庁長官として初入閣。閣僚としてはほかに、文部相、科学技術庁長官、農林水産相を歴任した。[br][br] 第2次森政権の00年12月~第1次小泉政権の02年9月と、第1次安倍政権の07年8月~麻生政権の09年9月には、国対委員長として国会対応に腐心。通算の在任期間は歴代最長で、野党とのパイプは、この頃に培ったとみられている。[br][br] 自民が下野した09年、谷垣禎一総裁の下で幹事長に就任。10年9月に副総裁に就いた。東日本大震災発生後は党復興加速化本部長も務め、複数の省庁にまたがる案件の解決に腕を振るい、「影の復興相」とも呼ばれた。12年9月には派閥の領袖(りょうしゅう)ともなった。[br][br] 15年4月、前議長の故町村信孝氏の病気療養による辞任に伴い、県選出国会議員として初の衆院議長に就任。「自民党一筋で、最初は染み付いた政党色を抜くのが大変だった」(大島氏)と語るものの、その後は安全保障関連の重要法案や集団的自衛権の行使を巡る問題などの審議で公平中立な議長としての職責をこなした。[br][br] とりわけ、衆院の定数削減を含めた選挙制度改革や、前天皇陛下の退位を実現する特例法に関する議論では、与野党の意見集約を先導。[br][br] 退位問題では、各党各会派にさまざまな意見があった中でも政局や政治問題にせず、一つの結論を出すことに尽力した。この経験などが高く評価され、17年10月の衆院選後、異例の再任となった。[br][br] 議長在任中は、折に触れて所感や談話を発表してきた。森友学園に関する決裁文書の改ざんなどを巡っては、政府に苦言を呈したほか、議事運営でも与野党調整に手腕を発揮した。[br][br] 議長外交にも積極的に取り組み、韓国との議会交流の枠組みとして「日韓未来対話」を立ち上げるなど、国内外で存在感を強めている。衆院議長に就任し、初めて地元入りした大島理森氏(右)=2015年4月、JR八戸駅