【斗南藩ゆかりの地探訪】(5)五戸代官所跡(五戸町)

復元された五戸代官所跡。円通寺に移転するまで斗南藩の藩庁が置かれた=五戸町舘
復元された五戸代官所跡。円通寺に移転するまで斗南藩の藩庁が置かれた=五戸町舘
1869(明治2)年に立藩した斗南藩。慣れ親しんだ会津の地に別れを告げ、新天地として最初の藩庁を置いたのが、旧盛岡藩の五戸代官所跡だった。五戸は交通の要衝として栄えていた。現在、五戸町中心部の歴史みらいパーク内にある代官所の建物は、当時の場.....
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 1869(明治2)年に立藩した斗南藩。慣れ親しんだ会津の地に別れを告げ、新天地として最初の藩庁を置いたのが、旧盛岡藩の五戸代官所跡だった。五戸は交通の要衝として栄えていた。現在、五戸町中心部の歴史みらいパーク内にある代官所の建物は、当時の場所の隣接地に1998年に復元されたものだ。[br][br] 会津から斗南の地に移った藩士と家族は1万7300人に上ったとされ、五戸や周辺に住んだのは2700人程度だったという。移住は小参事・倉沢平治右衛門(へいじえもん)が統括し、70(明治3)年4月に先発隊として東京にいた藩士300人が海路で八戸に上陸、三戸や五戸に入った。[br][br] 会津の藩士家族らは奥州街道を通り、北の地を目指した。陸路による旅路は相当に過酷なものだったようだ。『五戸町誌』などによると、同年は東北一帯が凶作で、米価が高騰。藩が後に一括で料金を支払うことにしていたが、多くの旅籠(はたご)屋が宿泊に難色を示し、新たな藩領となった斗南の地にたどり着けなかった人も少なくなかったという。[br][br] 一方、『青森県史』によると、藩主松平容大(かたはる)らは、同年9月に五戸に到着。藩主といってもまだ幼君。満1歳の容大は、代官所跡近くの三浦伝七方に仮住まいした。藩士たちの多くは初め、農家や商家から借りた小屋などに居住。農業で生計を立てざるを得なかったが、武士階級だったため、農作業には当然不慣れで、五戸にたどり着いてからも苦労を強いられたようだ。[br][br] 厳しい生活の中、山川浩ら藩の首脳は、港を活用した海上交易に可能性を見いだし、翌年2月、藩庁を田名部の円通寺に移転。五戸に藩庁が置かれたのはわずか数カ月だったが、藩の重臣だった倉沢や内藤信節(のぶこと)らは廃藩置県後も五戸に残り、青少年教育や土地の開拓など五戸地方の発展に尽力した。同町の郷土史家三浦榮一さん(92)は「教育を広めた斗南藩士たちの功績が、今の五戸の基礎を作った」と語る。[br][br] 代官所跡は後に、「青森県民事堂五戸支庁舎」(県庁の支庁)、五戸小の校舎として活用された。[br][br] 【「斗南衆」から「会津様」へ】[br] 五戸町誌などによると、五戸に移住してきた斗南藩士たちは当初、「斗南衆」や、米が足りなく大豆を多く食べていたことから「はと」などと呼ばれていた。だが時を経るにつれ、優れた見識や努力が認められ、いつしか「会津様」と呼ばれて尊敬されるようになったという。五戸に住んだ藩士や末裔(まつえい)たちの中からは、教育者や政治家、実業家といった優秀な人物が数多く輩出され、人材育成や土地開発などに大いに力を尽くした。復元された五戸代官所跡。円通寺に移転するまで斗南藩の藩庁が置かれた=五戸町舘