【斗南藩ゆかりの地探訪】(3)斗南藩史跡地(むつ市)

斗南藩が領内開拓の拠点にしようと市街地を建設したむつ市の斗南ケ丘。現在は斗南藩史跡地として「秩父宮両殿下御成記念碑」が建つ
斗南藩が領内開拓の拠点にしようと市街地を建設したむつ市の斗南ケ丘。現在は斗南藩史跡地として「秩父宮両殿下御成記念碑」が建つ
むつ市郊外の酪農地帯・斗南ケ丘。斗南藩は、明治時代まで原野だった丘陵地の開拓に未来を託した。現在の県道むつ尻屋崎線沿い、藩の市街地があった場所が斗南藩史跡地である。 戊辰戦争に敗れ、明治政府に領地を没収された会津藩。斗南藩として再興が許され.....
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 むつ市郊外の酪農地帯・斗南ケ丘。斗南藩は、明治時代まで原野だった丘陵地の開拓に未来を託した。現在の県道むつ尻屋崎線沿い、藩の市街地があった場所が斗南藩史跡地である。[br][br] 戊辰戦争に敗れ、明治政府に領地を没収された会津藩。斗南藩として再興が許されたが、難民のように移住してきた藩士たちは生計を立てる必要があった。藩は領内各地に農業授産のための入植地開設を進めようとする。斗南ケ丘をそのモデルにしようとしていた。[br][br] 斗南ケ丘の市街地は1870(明治3)年10月に完成。1戸建て約30棟、2戸建て約80棟からなり、約200戸が入居した。実態は掘っ立て小屋で、風雪による倒壊などが相次いだ。[br][br] 藩士たちは逆境に負けじと開拓を続けるも、71年7月には廃藩置県が断行された。以降も政府のコメ援助打ち切りや転業資金交付が始まり、多くが斗南の地を去って開拓は道半ばに終わった。史跡地には庭木やあずまやが整備されて憩いの空間になっているが、市街地の痕跡を残すのは区画整備の土塀跡のみである。[br][br] 史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」も建つ。1936年、大正天皇の第二皇男子である秩父宮雍仁(やすひと)親王と親王妃勢津子さまが下北巡遊で史跡地を訪れたことを記念し、43年に藩士の子孫らでつくる会津相携会(現斗南會津会)が中心となり建立した。[br][br] 勢津子さまは会津藩9代藩主松平容保(かたもり)の6男恆雄(つねお)の長女。朝敵と汚名を着せられた会津から、再び天皇家と縁が生まれた成婚は、元藩士たちにとって報われた瞬間だった。[br][br] 勢津子さまは71年、斗南會津会主催の斗南藩百年祭にも出席された。山本源八会長(76)は「皇族のご臨席は会の活動のシンボルになった」と誇らしげに語る。[br][br] 【藩の産業】[br] 産出額などは不明だが、さまざまな産業を推し進めた。農業では陸稲、ヒエ、アワ、ソバ、小麦、ジャガイモ、サツマイモ、大豆、アイ、タバコのほか、茶やミカンの栽培なども試みた。生活苦の移住者の面倒を見る救貧所を設け、漆器細工、製紙、機織り、陶器作りなど手工業を奨励した。レンガ場を設けて瓦や瓶を作ったり、砂鉄を精練する鉄工場を建てて鍋や釜、農具も製造したりした。斗南藩が領内開拓の拠点にしようと市街地を建設したむつ市の斗南ケ丘。現在は斗南藩史跡地として「秩父宮両殿下御成記念碑」が建つ