青函連絡船の悲劇継承を 函館市沖の海底に眠る「第四青函丸」

 沈没する前の第四青函丸(函館市青函連絡船記念館摩周丸提供)
 沈没する前の第四青函丸(函館市青函連絡船記念館摩周丸提供)
北海道函館市沖の海底で今年7月、戦後75年の時を経て「第四青函丸」が見つかった。本州経済の生命線だった当時の青函連絡船12隻は、米軍の攻撃でほぼ全滅した。NPO法人「語りつぐ青函連絡船の会」(同市)の高橋摂事務局長(65)は「戦線から遠く離.....
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 北海道函館市沖の海底で今年7月、戦後75年の時を経て「第四青函丸」が見つかった。本州経済の生命線だった当時の青函連絡船12隻は、米軍の攻撃でほぼ全滅した。NPO法人「語りつぐ青函連絡船の会」(同市)の高橋摂事務局長(65)は「戦線から遠く離れて石炭や食糧を運んでいただけなのに。それが戦争だ」と訴える。[br][br] 1945年7月14日の空襲で沈没した第四青函丸は乗組員54人が亡くなった。沈没したとみられる場所から海洋調査会社ウインディーネットワーク(静岡県下田市)とNHKが船体を発見し、複数の識者が映像から第四青函丸と確認した。[br][br] 太平洋戦争時、海上輸送は要だった。北海道から石炭や人員を運んでいた12隻の連絡船は度重なる攻撃で沈没や座礁し約400人が亡くなった。 太平洋戦争が始まると軍需輸送の増加を補うため、青函連絡船が相次いで建造された。貨物船の函館―青森間は当初6時間かかったが、第四青函丸の頃は4時間半になり、1日2往復が可能に。当時の最新鋭船だった。他の船は対空機関銃などを搭載していたが、第四青函丸だけが非武装だった。はっきりとした理由は分かっていない。[br][br] この頃、石炭は国内工業の重要なエネルギー源になっていた。米軍の連絡船攻撃は輸送ルートを破壊し、国内の製造を止める狙いがあった。戦時経済が専門の原朗東京大名誉教授は「空襲で航路が断たれたことで青森―京浜工業地帯への石炭の提供が止まり、戦時経済が終焉(しゅうえん)を迎える一要因となった」と分析する。[br][br] 丸腰のまま攻撃を受け沈没し、今も海底に眠る第四青函丸。高橋さんは「島国の日本は、貿易に頼らないと成り立たない。その貿易は現在も99・6%を海運が担っている。絶対に戦争をしてはいけないことを知ってほしい」と力を込めた。[br][br] ■青函連絡船 1908年3月に運航を開始した北海道の函館と本州の青森を結ぶ鉄道連絡船。旅客輸送だけでなく、鉄道貨物を貨車ごと船に積み込む貨車航送が特徴で、北海道と本州間の物流を支えた。輸送量は70年代をピークに減少し、88年3月の青函トンネルの開通を機に運航を終えた。80年間で旅客1億6千万人、貨物2億4千万トンを運んだ。 沈没する前の第四青函丸(函館市青函連絡船記念館摩周丸提供)