【連載・八戸三社大祭「伝統の原点へ」】第1部(3)疫病と祭り

明治期の撮影とみられる初期の風流山車。家屋の屋根を超える高さの山車もある(八戸市立図書館蔵)
明治期の撮影とみられる初期の風流山車。家屋の屋根を超える高さの山車もある(八戸市立図書館蔵)
八戸三社大祭を彩る大仕掛けで華やかな山車。その移り変わりに疫病が関係していたことは、八戸市民にもあまり知られていない。 江戸時代の「出し(山車)」は当初、竿(さお)の上部に簡素な人形や飾りを施し、まといのように1人で手持ちできる形式だったと.....
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 八戸三社大祭を彩る大仕掛けで華やかな山車。その移り変わりに疫病が関係していたことは、八戸市民にもあまり知られていない。[br] 江戸時代の「出し(山車)」は当初、竿(さお)の上部に簡素な人形や飾りを施し、まといのように1人で手持ちできる形式だったと考えられている。その後は有力商人が、職人に作らせた精巧な一点物の人形を大事に保管し、屋台や店先に飾る習わしが長く続いた。[br] 山車作りの転機となったのは1886(明治19)年の全国的なコレラの流行だ。7月には八戸地方へも波及し、11月に収束するまでに、患者2373人のうち1318人が死亡する大惨事となった。[br] この頃から、毎年趣向を変えて作り替える「風流山車」が登場し始める。地域史に詳しい、青森県文化財保護審議会委員の工藤竹久さん(同市)は「明確な時期は文献に残っていないが、コレラ禍から解放されたことを記念し、翌87年の祭りから登場したとみるのが妥当だ」と指摘する。[br]   ◇    ◇[br] 風流山車を制作したのは、主に市井の一般住民だ。集いの場であった各町内の消防屯所で、競い合うようにそれぞれの発想や技術を生かした“作品”を作り上げた。「八戸の山車には、伝統の祭りに付き物の厳格な約束事がなく、自由に作れたことも人気の理由だった」と工藤さん。やがて風流山車は主流となった。[br] 藩の後ろ盾があった神社から、有力商人や氏子を経て、さらに住民全般へ―。風流山車が登場した背景には、同祭における支え手の変遷をも垣間見ることができる。[br] そもそも同祭の祭礼は、五穀豊穣(ほうじょう)の祈願や収穫への感謝が主眼で、無病息災や疫病退散を願うものではない。ただ、八戸藩は悪天候などで飢饉(ききん)に陥り、飢え死にや疫病の拡大に見舞われる例も少なくなかった。工藤さんは「その意味で、五穀豊穣と疫病退散の願いは、地続きのものだったともいえる」と解説する。[br]   ◇    ◇[br] 同祭は地元経済の活性化の役割も果たしてきた。江戸時代に他藩が災害で行事をたびたび中止した一方、八戸では商人らの要請もあり、規模を縮小しながら継続の道を探ってきた。[br] 三社大祭と感染症、経済を巡る歴史は新型コロナウイルスの影響を受ける現在の状況と重なる。工藤さんは「祭りは伝統を守りながら、時代の変化を如実に受け入れてきた。現在の山車の発端となった疫病退散や、五穀豊穣といった祭り本来の意義を改めて理解し、来年以降の安全な実施に力を注いでくれれば」と期待を寄せる。明治期の撮影とみられる初期の風流山車。家屋の屋根を超える高さの山車もある(八戸市立図書館蔵)