【世界のJOMONへ】第2部(5)・完 出土品の行き先

是川遺跡から出土した木胎漆器(左上)と亀ケ岡遺跡の遮光器土偶(写真はコラージュ)
是川遺跡から出土した木胎漆器(左上)と亀ケ岡遺跡の遮光器土偶(写真はコラージュ)
大きな眼鏡をかけたような遮光器土偶で有名なつがる市の「亀ケ岡石器時代遺跡」と、漆器が出土するなど自然との共生が特徴的な八戸市の「是川石器時代遺跡」。共に美しく装飾された土器などが大量に出土し、多くの研究者や収集家の興味を引いたが、出土品の“.....
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 大きな眼鏡をかけたような遮光器土偶で有名なつがる市の「亀ケ岡石器時代遺跡」と、漆器が出土するなど自然との共生が特徴的な八戸市の「是川石器時代遺跡」。共に美しく装飾された土器などが大量に出土し、多くの研究者や収集家の興味を引いたが、出土品の“行き先”には大きな違いがある。[br] 是川遺跡は、全ての遺物が泉山斐次郎の敷地内から出てきたことに加え、泉山岩次郎・斐次郎兄弟が門外不出を貫いた。1961年に同市に約5千点の遺物を一括して寄贈してからは、現在も市埋蔵文化財センター是川縄文館で展示・収蔵されている。[br] 収蔵庫は温度や湿度が調整されており、劣化を防ぐため、徹底した管理が行われている。泉山兄弟が出土品を市に一括で寄贈したからこそ実現したもので、現在も出土品の分析、研究などに生かされている。[br] 一方、1973年に青森県教委によって本格的に発掘された亀ケ岡遺跡は、土地の地権者が多かったため、出土品はそれぞれ個人の所有物となった。土器などは、古くから“奇代の瀬戸物”として好事家が注目。文化財保護法が制定される前は盗掘も行われるなど、所在不明になってしまう出土品が後を絶たなかった。[br] つがる市教委社会教育文化課文化財保護係長の羽石智治さんは「出土品が『遺跡』として理解が出てくるのは現代になってから。最初は個人の所有物として、自分が持っている土器などを見せ合う機会もあったようだ」と話す。[br] 一方、出土品が拡散したことで遺跡の価値が国内外に広がったとの見方もある。是川縄文館主幹の小久保拓也さんは、亀ケ岡遺跡について「世界的に縄文文化を有名にしたという大きな役割を果たした。縄文の広告塔とも言える」と指摘する。[br] 1887年に低湿地から出てきた遮光器土偶は、1986年に国が地元住民から買い取った。現在は国の重要文化財として東京国立博物館で保管され、同市にはレプリカが展示されている。地元では「シャコちゃん」の愛称で親しまれ、JR五能線木造駅は巨大な遮光器土偶の形をしていたり、グッズが売られていたりと縄文を大きくアピールしている。[br] 昨夏には、十分な管理設備を備えた青森市の三内丸山遺跡センターで、15年ぶりに県民にお披露目された。多くの来場者は興味深そうに見入り、土偶に込められた静かな祈りを感じていた。[br] 門外不出の「是川遺跡」と国内外に“拡散”した「亀ケ岡遺跡」。出土品の行き先は異なるが、共に縄文文化の解明、地名度向上に大きく貢献したに違いない。是川遺跡から出土した木胎漆器(左上)と亀ケ岡遺跡の遮光器土偶(写真はコラージュ)