【刻む記憶~東日本大震災10年】北三陸ファクトリーの下苧坪さん 洋野のウニで世界に挑む

東日本大震災を機に、洋野町産のウニを海外へ売り込み、ブランド化を進める、ひろの屋代表の下苧坪之典さん=3月上旬、同町
東日本大震災を機に、洋野町産のウニを海外へ売り込み、ブランド化を進める、ひろの屋代表の下苧坪之典さん=3月上旬、同町
洋野町で水産のベンチャー企業を興し、地元特産のウニを引っさげ、世界の荒波に挑む―。壮大な計画を進めているのが、海産物卸売業「ひろの屋」代表の下苧坪之典さん(40)だ。きっかけとなったのは東日本大震災。町内では津波でウニが陸へと打ち上げられ、.....
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 洋野町で水産のベンチャー企業を興し、地元特産のウニを引っさげ、世界の荒波に挑む―。壮大な計画を進めているのが、海産物卸売業「ひろの屋」代表の下苧坪之典さん(40)だ。きっかけとなったのは東日本大震災。町内では津波でウニが陸へと打ち上げられ、種苗を育てる栽培センターは壊滅。創業直後の出来事に「未来が全く見えなくなった」。ただ、曽祖父や祖父が自身と同じように海外へと販路を模索していたことを知り、確信した。「自分の選んだ道は間違いではなかった。洋野のウニを多くの人に届けたい」[br][br] 会社勤めを経て2010年に創業。ワカメをはじめとした加工品の販売を手掛け、「いつかは海外へ洋野のウニを届けたい」という思いを胸に走りだしたところに、古里を巨大な津波が襲った。[br][br] 町内に構える加工施設に直接被害はなかったが、一変した町の様子にがくぜんとした。みなぎっていたはずの活力が体から抜け落ちるようだった。「このままでは過疎化が進む洋野は沈んでしまう」。自らにハッパを掛け、行動に移した。[br][br] 被災の現状を知ってもらおうと、首都圏の物産展にも積極的に参加。多くの人と出会い、人脈が広がると、次々とアイデアが生まれた。洋野のウニにはまだまだ可能性があるように感じた。そして、それは自身のDNAに刻まれた“先代”たちからのメッセージのようでもあった。[br][br] 震災後のある日、祖父の家で1枚の写真を見つけた。在りし日の曽祖父と祖父が写っており、香港へ向けて干しアワビを輸出していたことを知った。「同じようなことを考えていたんだな」。洋野の海産物が世界に通用するという確信を得るのと同時に、“大海原”への挑戦が幕を開けた。[br][br] 13年に町の漁業関係者らと共に「北三陸 世界ブランドプロジェクト実行委員会」を設立。15年にはひろの屋が中心となって、ブランド「北三陸ファクトリー」を立ち上げ、ウニを中心とした新商品の開発や販売を手掛けた。[br][br] 下苧坪さんは香港や台湾、シンガポールなどアジア各国に出向き、洋野のウニの高い品質をアピール。高級レストランなどで次々と商談を成立させた。[br][br] 18年には、そのブランド名を冠した新会社を設立した。震災による津波の影響で、海藻が大幅に減ったことで、ウニが餌となる海藻を食べ尽くす「磯焼け」が深刻化してきており、新たにウニの養殖という国内でも例のない大きな事業に着手。地域雇用の創出や震災からの復興へ向け、町内からも期待が寄せられる。[br][br] 「洋野のウニは高い評価を得たが、自分はまだそのスタート地点に立ったにすぎない」と謙虚な姿勢は崩さない下苧坪さん。6日、津波で壊滅的な被害を受けた種市漁港から程近い場所で、北三陸ファクトリーの新工場が完成を迎えた。「価値のある場ということに変わりはない。ここから始めることに意味がある」。古里の海に生きる男の“大航海”は続く。[br]※随時掲載東日本大震災を機に、洋野町産のウニを海外へ売り込み、ブランド化を進める、ひろの屋代表の下苧坪之典さん=3月上旬、同町