【刻む記憶 鉄路をつなげ】(4)八戸線全線復旧

試運転で大浜川橋梁を通過するディーゼル機関車。橋桁の下では約30人の作業員が列車を待ち受けた=2012年3月10日、洋野町
試運転で大浜川橋梁を通過するディーゼル機関車。橋桁の下では約30人の作業員が列車を待ち受けた=2012年3月10日、洋野町
損壊した駅舎、横倒しになった除排雪用の保守車両、橋脚だけの橋梁(きょうりょう)…。東日本大震災から3日後の2011年3月14日、JR八戸線の被害状況の確認に訪れた、八戸地区駅長の西野重俊さん(55)は、生まれ育った洋野町の変わり果てた姿に言.....
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 損壊した駅舎、横倒しになった除排雪用の保守車両、橋脚だけの橋梁(きょうりょう)…。東日本大震災から3日後の2011年3月14日、JR八戸線の被害状況の確認に訪れた、八戸地区駅長の西野重俊さん(55)は、生まれ育った洋野町の変わり果てた姿に言葉を失った。[br][br] 津波の威力は想像をはるかに超えていた。震災発生時に運行していた列車は、数十分後にそこを通っていたかもしれない。人的被害がなかったのが奇跡と思えるほど、震災の爪痕は深かった。涙が頰を伝った。[br][br] 同線は18日に八戸―鮫間、24日に鮫―階上間が運転を再開した。西野さんは素直に喜べなかった。階上以南の復旧はまだめどすら立たない。長期化を覚悟していた。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br] 同線の魅力は車窓から望む太平洋の景色だ。現行ルートには津波被害の懸念が付きまとった一方、沿線住民からは「同じ経路で復旧してほしい」との声が根強かった。[br][br] JR東日本盛岡支社では復旧工事と併せ、津波発生時の避難経路の策定にも着手した。工事課から6月に総務部企画室に異動した太田健一さん(36)はメンバーの一人。被災地を約1週間かけて歩くなど実際の現場の状況を確認し、洋野の役場には毎日のように通って調整に奔走した。[br][br] 7月には避難通路や案内板の設置を開始。新たな対策は八戸―久慈間で113カ所を数え、うち13カ所には避難階段を造った。[br][br]  ◇  ◇  ◇[br] 復旧へ向けて、着々と準備が進む中、津波で流失した洋野町の大浜川橋梁の工事が最後まで立ちはだかった。現場の指揮を執ったのが、10月に同課から盛岡土木技術センターに異動した佐々木勝法さん(48)。ゼロから造り直せば数年単位の工事となるが、「橋脚が残っていてくれたのはラッキー」だった。海に流されず近くに残されていた線路や橋桁なども再利用することで、作業期間を大幅短縮する計画が進められた。[br][br] 12月、大浜川橋梁では修繕した橋桁を掛ける工事がついに始まった。橋脚にはコンクリートを注入して補強した。時を同じくして全線復旧は12年3月17日となることが発表され、作業はいよいよ大詰めを迎えた。[br][br] 全線再開を1週間後に控えた10日、大一番となる試運転が行われた。佐々木さんらも駆け付け、約30人が橋桁の下で朱色のディーゼル機関車の通過を待った。頭上を駆ける数秒間、計器の数字に視線が集まった。[br][br]「正常値だ」[br][br] その機関車には西野さんが乗車していた。狭い運転台の先に広がる古里の海を眺め、目頭が熱くなった。「やっと復旧してくれた」。1年前に流した涙は歓喜に変わった。17日、同線は被災在来線で最も早く全線復旧を遂げた。[br](年齢、肩書は当時)試運転で大浜川橋梁を通過するディーゼル機関車。橋桁の下では約30人の作業員が列車を待ち受けた=2012年3月10日、洋野町