【月刊Dash】「長根っ子」の誇り胸に五輪出場/スピードスケート金濵康光

カルガリー五輪男子1000メートルで9位に入った金濵康光=1988年2月18日(本人提供)
カルガリー五輪男子1000メートルで9位に入った金濵康光=1988年2月18日(本人提供)
1988年2月18日、カナダ・カルガリー。冬季五輪史上初めて室内リンクが舞台となったスピードスケートの男子1000メートルに、八戸市出身の24歳・金濵康光(ジャスコ、現イオン)が挑んだ。スタートで1度、フライングしたが、焦りや緊張は少しもな.....
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 1988年2月18日、カナダ・カルガリー。冬季五輪史上初めて室内リンクが舞台となったスピードスケートの男子1000メートルに、八戸市出身の24歳・金濵康光(ジャスコ、現イオン)が挑んだ。スタートで1度、フライングしたが、焦りや緊張は少しもなかった。「今までに培ったものを出し切るだけだ」。大観衆を包んだ静寂を切り裂く乾いた音に反応するように、身長182センチの若者がスタートを切った。「長根っ子の誇り」を胸に―。[br][br] 八戸市糠塚地区で電気工事業を営む岩男さん、ミツヱさん夫妻の長男として育った。小学校に入ると、冬場は父親に買ってもらったスピードスケート靴を手に友人と長根リンク通いの日々。「タイムを短縮したり賞状をもらったりして家族に褒められるのがうれしくて競技に熱中した」。卒業文集には自らの夢をこう記した。「将来は五輪に出る」[br][br] 中学最後の冬は、青森県中学校大会で長距離2種目を制したが、当時は全国大会がない時代。「県内で一番になっても、自分にどれだけの力があるのか確かめようがなかった」。高校は光星へ。そこで外部コーチを務めていた同校OB山口広道氏(故人、元県スケート連盟会長)と出会い、飛躍を遂げていく。[br][br] 夏場は山口氏の自宅に泊まり込み、陸上トレーニングでみっちり体力を強化。冬場は中学までほぼ自己流だったスケーティングフォームを改善するための指導を受けた。成果は1年目から表れた。自身初の全国大会だった全国高校総体(釧路)の5000メートルで7位に入賞した。[br][br] 2年夏は別のコーチと練習の方向性で折り合わず、スケートから離れた時期もあったが、周囲に説得されて復帰し、81年1月の全日本ジュニア選手権(長根)で男子総合優勝。「山口さんには大会前から『(お前なら)勝てる』と言われていた。自分では半信半疑だったのでびっくりした」。山口氏への信頼は揺るぎないものとなった。シーズン終盤は世界ジュニア選手権(ノルウェー)も経験。高校最後のシーズンは全国高校総体などで表彰台に上がった。数々の実績を引っ提げ、国内短距離のエース黒岩彰らを擁する名門・専修大に進んだ。[br][br] 当時の主戦場は中長距離。戦う相手のレベルが格段に上がり、大学1年目は通用しなかったが、国内一線で活躍するチームメイトらにもまれながら努力を惜しまなかった。2年目には全日本選抜大会(札幌)1500メートルで優勝するなど徐々に結果も出始めた。[br][br] そのシーズン終盤、日ソ友好選手権に日本選手団の一員として派遣された。会場は、高地にあり当時の「世界記録製造リンク」の一つだったソ連・メディオ(現カザフスタン)。ここで専門外の500メートルに出場した際、出したタイムが37秒台。「当時、日本人選手では数少ないタイム」だった。[br][br] 帰国後、大学の前嶋孝監督からこう告げられた。「短距離に転向しなさい」。戸惑いつつも受け入れたことで、運命がガラリと変わる。最上級生だった黒岩がサラエボ冬季五輪(当時ユーゴスラビア)でメダル候補に挙げられながら惨敗した直後のことでもあった。大学では、運動生理学を研究する前嶋監督が世界的にも画期的なメンタルトレーニングを導入するなど、巻き返しに向けて練習内容も変化し始めていた。[br][br] 短距離転向後の初シーズンだった大学3年の冬は、国内一線級が集う全日本スプリント選手権(長野)で総合2位に入り、世界スプリント選手権(オランダ)にも出場。「小学校卒業文集に書いた『夢』は、明確な『目標』になった」[br][br] 大学4年の夏。神奈川・三浦半島での自転車トレーニング中、交通事故に遭った。けがを負い、3カ月間は練習できなかった影響が尾を引き、目立った成績を残せないまま卒業を迎えた。それでも、五輪への情熱は消えなかった。大学卒業後はジャスコ入り。遠征などの資金面は所属先、スケートは専大の支援をそれぞれ受けながら、上のレベルを目指した。1年目から全日本スプリント選手権で総合3位、世界スプリント選手権(カナダ)は1000メートル4位の好成績。「やっと世界で戦える感覚になった」[br][br] 87年夏、完成間もない世界初の屋内リンク・カルガリーオーバル(カナダ)での合宿に参加し、本番へのイメージを膨らませた。そして迎えた88年1月の全日本スプリント選手権(山梨)。五輪代表選考会を兼ねたこの舞台で「競技人生で初」の大きな重圧を味わう。短距離は実力者がそろい、レース中の少しのミスが順位に直結する。夢の実現が懸かった中で、「ピリピリした雰囲気に押しつぶされそうだった」。[br][br] 500メートルと1000メートルを各2回行い、総合成績を競う同選手権。父に見守られながら4種目を滑り終えると、リンクサイドに倒れ込んだ。4種目とも1位選手が異なる大激戦で、総合4位。直後の代表発表で名前が読み上げられても信じられず、「周囲に確認して認識できた」。重圧からやっと解放された。[br][br] 年が明けて、前哨戦の世界スプリント選手権(米国)は500メートル2位の好成績だったが、大本番へ気負いはなかった。意識したのはメダルでも入賞でもなく、「あくまで自分が納得できるレースをすること」だ。[br][br] 五輪ではメンタルトレーニングの成果で大観衆の歓声も気にならなかった。初の室内開催五輪とあって好記録が続出する中、自身も500メートルが37秒25、1000メートルは1分14秒30と、共に五輪新で9位。入賞には届かなかったが、1000メートルは日本人最高順位だ。「実力は出し切れた」。潔くスケート靴を脱ぎ、選手生活に終止符を打った。「“長根っ子”として目標に向かって努力してこられた経験は誇りだ」カルガリー五輪男子1000メートルで9位に入った金濵康光=1988年2月18日(本人提供)