【斗南藩ゆかりの地探訪】(8)招魂碑(三戸町)

会津藩からの移住者が悟真寺の境内に建てた招魂碑。畳1枚ほどの大きさがあり、三戸城の石垣が使われた=三戸町同心町
会津藩からの移住者が悟真寺の境内に建てた招魂碑。畳1枚ほどの大きさがあり、三戸城の石垣が使われた=三戸町同心町
三戸町中心部の八日町商店街を脇道に入った場所にある悟真寺。境内には、戊辰戦争と明治維新期の混乱で忠義の死に倒れた会津藩士らを弔う招魂碑が建つ。 招魂碑は、戊辰戦争犠牲者の27回忌に当たる1894(明治27)年、会津からの移住者によって建立さ.....
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 三戸町中心部の八日町商店街を脇道に入った場所にある悟真寺。境内には、戊辰戦争と明治維新期の混乱で忠義の死に倒れた会津藩士らを弔う招魂碑が建つ。[br][br] 招魂碑は、戊辰戦争犠牲者の27回忌に当たる1894(明治27)年、会津からの移住者によって建立された。碑の題字は斗南藩主の松平容大が揮毫した。[br][br] 碑文には、「乱平ぎて後、藩執政萱野長修、衆に代わって屠腹」と、唯一名前を記された人物がいる。萱野権兵衛(長修)だ。[br][br] 戊辰戦争で敗れた会津藩は、新政府から首謀者を出すよう求められた。萱野は主君である9代藩主松平容保を守るため責任を一身に負い、69(明治2)年に江戸で切腹した忠臣として知られる。[br][br] 萱野の墓は東京と福島県会津若松市にあるが、2013年に悟真寺で、金泥で装飾された萱野の位牌が見つかった。松平家由来の家紋である葵の下には、戒名と「旧会津藩士戦死一切精霊」の文字が刻まれ、犠牲となった多くの藩士と共に祭られていた。[br][br] 三戸町教委史跡対策室史跡対策班の野田尚志班長(46)は、「藩の中枢を担う家老の切腹は会津の人々に強い印象を残したことだろう。自らが犠牲となって主君や藩士を救ったことから名前が記されたのではないか」と推測。[br][br] 位牌については、「招魂碑に名前が記されているのは萱野だけ。別々ではなく、一緒に祭られたと考えられる」と話す。[br][br] 悟真寺に招魂碑が建てられてからは、毎年5月に慰霊祭が執り行われ、近隣に住む会津ゆかりの人々が参加していた。現在、慰霊祭は途絶えているが、個人の参拝者は絶えることがない。[br][br] 工藤教雄住職(44)は「招魂碑には会津、斗南の人々の苦労や亡くなった人への思いが凝縮している。寺がある限り、その思いを後世へつないでいきたい」と語る。[br][br] 【集会場所だった悟真寺】[br] 三戸町の悟真寺は、会津藩士が移住してきた直後から集会場所として活用された。慰霊祭のほか、周辺地域の移住者による会合も定期的に開かれた。[br][br] 野田氏は同寺が拠点となった理由について、「明治初期の混乱期、移住してきた会津の人々を受け入れる温情があった」「近くに救貧院などの拠点施設があり、地理的に便が良かった」と推測。「一つの理由ではなく、複合的な要因で悟真寺に集まるようになったのだろう」と説明する。[br][br] 現在境内には、招魂碑に寄り添うように会津ゆかりの家の墓が立ち並ぶ。会津藩からの移住者が悟真寺の境内に建てた招魂碑。畳1枚ほどの大きさがあり、三戸城の石垣が使われた=三戸町同心町