【斗南藩ゆかりの地探訪】(1)斗南藩士上陸の地(むつ市)

むつ市大湊新町にある史跡「斗南藩士上陸の地」。奧は釜臥山。藩士たちは故郷の磐梯山の姿と重ね、心の支えにしたという
むつ市大湊新町にある史跡「斗南藩士上陸の地」。奧は釜臥山。藩士たちは故郷の磐梯山の姿と重ね、心の支えにしたという
むつ市のJR大湊駅から東南へ徒歩約10分。静かで穏やかな陸奥湾に面した場所に史跡「斗南藩士上陸の地」がある。 戊辰戦争で敗れた会津藩は、朝敵・逆賊の汚名を着せられて滅藩となった。その後に斗南藩として再興され、本州最北の地で再出発する。新生活.....
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 むつ市のJR大湊駅から東南へ徒歩約10分。静かで穏やかな陸奥湾に面した場所に史跡「斗南藩士上陸の地」がある。[br][br] 戊辰戦争で敗れた会津藩は、朝敵・逆賊の汚名を着せられて滅藩となった。その後に斗南藩として再興され、本州最北の地で再出発する。新生活に希望を抱き、海路で到着した元会津藩士たちが一歩を踏み出した場所の一つが上陸の地だ。[br][br] 斗南藩は1869年11月、明治政府から9代会津藩主松平容保の長男容大への家督相続が許されて誕生した。与えられた領地は現在の下北郡と上北郡、三戸郡、二戸郡の一部と北海道の一部。71年7月の廃藩置県まで存在した。元会津藩士や家族合わせて2800戸、1万7300人が移住したとされる。[br][br] 移住は70年4月に始まって数回にわたり、海路は日本海と太平洋ルートに分かれた。上陸の地には6月10日夜、新潟港を出発した約1500人が到着し、翌日上陸を果たした記録が残る。目の前にそびえる釜臥山は故郷会津の磐梯山に、陸奥湾は猪苗代湖に見立てられ、心の支えになったという。[br][br] 移住の経路を後世に伝えるために石碑が整備されている。斗南藩120周年にちなみ、同市が市制施行30周年記念事業で1990年3月に建立した。[br][br] 石碑は会津藩の若松城(鶴ケ城)の石垣に使われている慶山石で、福島県会津若松市から寄贈された。正面の方角、はるか先には会津がある。旧藩士たちは遠い故郷をしのんだ。碑文の揮ごうは会津松平家第13代当主の松平保定氏による。[br][br] 台座は、1892年に旧田名部尋常高等小学校建設の際に使用した基礎石。周囲にはむつ市の花であるハマナスと、会津若松市の木であるアカマツが植栽され、両市の深い縁が根付いている。[br][br]   □  □[br][br] 今年は会津藩が斗南藩として再興し、移住から150年の節目。廃藩置県によりわずか2年足らずで歴史を終えるが、斗南の地に残った元藩士や子孫は地域の各分野に大きく貢献した。足跡を伝えるゆかりのスポットを紹介する。[br][br]【斗南の由来】[br] 一説には中国の詩文にある「北斗以南皆帝州」から取ったと言われる。北の辺境に流されてきたが、天皇の国に変わりなく、共に北斗七星を仰ぐ民であるとの意味が込められているという。もう一説はいて座の中央部を指す南斗六星を語源とするもの。射手が矢を向ける隣のさそり座は、会津藩滅藩の原因となった薩長藩閥政府を表すとも。斗南藩士が帝国議会に提出した復禄請願書類に、藩名を「地名ではなく、北斗の南に位置する」「外南部という地元の俗称」と記した史料も見つかり、新説として浮上している。むつ市大湊新町にある史跡「斗南藩士上陸の地」。奧は釜臥山。藩士たちは故郷の磐梯山の姿と重ね、心の支えにしたという