聖寿寺館跡(南部)で礎石建物の痕跡 住居以外の可能性

礎石建物の痕跡とみられる罫書線が見つかった石=9日、南部町の聖寿寺館跡
礎石建物の痕跡とみられる罫書線が見つかった石=9日、南部町の聖寿寺館跡
戦国時代に北奥羽地方で最大の勢力を誇った三戸南部氏が拠点とした南部町小向の国史跡「聖寿寺(しょうじゅじ)館跡」について、町教委は9日、城館敷地内に、柱を石の上に据える「礎石建物」の痕跡を見つけたと発表した。室町・戦国時代、礎石建物は寺社に多.....
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 戦国時代に北奥羽地方で最大の勢力を誇った三戸南部氏が拠点とした南部町小向の国史跡「聖寿寺(しょうじゅじ)館跡」について、町教委は9日、城館敷地内に、柱を石の上に据える「礎石建物」の痕跡を見つけたと発表した。室町・戦国時代、礎石建物は寺社に多く用いられたが、城館内に礎石建物を構える例は東北地方では2例目と珍しい。お堂など住居とは違う役割の建物があった可能性もあり、町教委は「聖寿寺館の空間利用や建築文化を再考すべき発見だ」としている。[br][br] 今回見つかったのは、礎石に柱を据える際、目印となる「罫書(けがき)線」が書かれた石。地中に柱を埋め込む「掘立柱建物」の跡が存在する城館中心部分の南側を調査していた際、柱の穴の底に埋まっていた。[br][br] 町教委によると、室町・戦国時代の東日本では礎石建物が寺社に、堀立柱建物が住居に用いられることが多かった。ただ、中央では、高度な技術建築で権威を示せることから、礎石建物が住居を含む城館建築にも用いられるようになっていた。[br][br] 現在、同時代の城館で礎石建物が確認されているのは、伊達氏の居城だった梁川城跡(福島県伊達市)が最北。今回の発見は、南部氏の中央との結び付きや権威の強さを物語る証拠になる可能性がある。[br][br] 同日、発掘現場で開かれた会見で、町教委社会教育課史跡対策室の布施和洋総括主査は「石に残っている柱の跡は5寸(15・2センチ)四方。あまり太くないので門や2階建てのような大きな建物ではない」と説明。[br][br] 建築史学が専門の永井康雄山形大教授は「中世の建築技術を考える上で、南部氏が高度な技術を持つ集団を確保していたことや、文化の象徴である建築に中央の文化を取り入れていたとすれば大きな意味を持つ」と述べた。礎石建物の痕跡とみられる罫書線が見つかった石=9日、南部町の聖寿寺館跡