「負けない。」コロナ禍、都内活動に区切り 歌手吉岡さん(八戸出身)恩返しの帰郷へ

東京最後のステージとして音楽療法セミナーに臨んだ吉岡リサさん=8日、東京都墨田区
東京最後のステージとして音楽療法セミナーに臨んだ吉岡リサさん=8日、東京都墨田区
新型コロナウイルス禍は歌謡の世界にも及ぶ。「3密」の懸念からコンサートなどの開催が制約され、スポットライトを奪われた主役たち。フリーの歌手としてステージに立つ吉岡リサ(本名・典子)さん(60)=八戸市出身=は、感染収束の見えない東京都内での.....
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 新型コロナウイルス禍は歌謡の世界にも及ぶ。「3密」の懸念からコンサートなどの開催が制約され、スポットライトを奪われた主役たち。フリーの歌手としてステージに立つ吉岡リサ(本名・典子)さん(60)=八戸市出身=は、感染収束の見えない東京都内での活動に区切りを付ける選択に迫られた。夢を追って故郷を飛び出し、大病を乗り越えて迎えた歌手生活18年目。想像だにしなかった現実を受け止められない時期もあったが、来年から八戸に拠点を移すと決意した今、持ち前のバイタリティーに再び火が付いている。[br] ◇  ◇  ◇[br] イカ釣り漁を営む父と、家事よりも歌や踊りに没頭する母。コールタールで汚れた父の服と一緒に洗濯されるのが嫌だった。家に帰ると夕飯を準備して待っている友達の母に憧れた。「全ては親の反面教師。とにかく家を、青森を出たかった」。そんな悶々(もんもん)とした思春期の最中、通っていた八戸東高の先輩が米国留学したことに「素晴らしい世界が待っているんじゃないか」と感化された。 [br] 卒業後に渡航費をためて1981年から約3年間、念願の米国に渡って語学を磨いた。日本に戻って勤めたのは外資系の大手コンサルティング会社。粒ぞろいの同僚に囲まれてキャリアを積み重ね―と思いきや、友人と何気なく連れ立ったスナックで転機が待っていた。カラオケの順番が回って来てマイクを握ると、居合わせた客から万雷の喝采と共にアンコールを求められたのだ。[br] 「私、歌でいけるかも」[br] 今は笑って懐かしむ「美しい勘違い」。通い始めたカラオケ教室で誘われるがまま出場したカンツォーネのコンテストに入賞し、誤解は確信へと変わった。[br] 針路を決定付けたのは2002年の東北新幹線八戸駅開業だ。高校の同窓会関係者を介して出会った地元在住の作曲家、島一男さんが温めていた開業イメージソング。02年11月に「北の街へ」として発売され、歌手専業の道に進んだ。地元との縁が切り開いた人生。かつて反発した地元には、自然とこんな感情も抱いていた。「やっぱり八戸が好きなんだ」 [br] ◇  ◇  ◇[br] 会社員時代に子宮頸がんを患い、歌手デビュー後の07年には乳がんも経験した。特に2度目は治療の影響でホルモンバランスが乱れ、昼夜を問わず滝のような汗が止まらない。それでも無我夢中で歌った。墨田区の行政やNPO法人と連携し、認知症や摂食嚥下障害を予防する高齢者向けの音楽療法セミナーも15年にわたりライフワークとして続けてきた。しかし、新型コロナはこうした「日常」を吉岡さんから奪い去った。[br] 企業に雇用されずに働く立場上、活動自粛のあおりは収入減に直結する。持続化給付金もすぐに底を突き、「にっちもさっちも行かなくなる前に何とかしなければと考えた時、八戸に帰る以外の選択はなかった」。[br] 悔しさが募る日々。今にも折れそうな心を支えたのは地元ファンの便りだった。「生きてんのか?」「食べてんのか?」。自宅にはコメや肉、野菜も度々届けられた。「場所が変わってもできることはたくさんある。悔やんでも仕方ない」。帰郷に新しい目的を見いだした。[br] 今月8日、都内最後のステージとして墨田区のセミナーに臨んだ吉岡さん。観客は従来の半分程度にとどまる約80人に絞られ、自身もフェースシールドを着用して厳重な対策を講じた。フィナーレとは相反する少し異質な光景だったが、長年の貢献をたたえる感謝状を主催者から受け取った表情は晴れ晴れとしていた。「この経験はきっと生きるはず。これからいっぱい八戸に恩返ししなきゃ」東京最後のステージとして音楽療法セミナーに臨んだ吉岡リサさん=8日、東京都墨田区