価値高まる十和田古道/江戸期のまま7割残存、戦国末期の城館後も発見

見つかった城館跡を調べる齊藤利男名誉教授(左)ら関係者=5月23日、十和田市
見つかった城館跡を調べる齊藤利男名誉教授(左)ら関係者=5月23日、十和田市
かつて、八戸から霊山十和田への参詣者は、五戸を通り、月日山という霊場を経て十和田湖に至った―。昨年、この「十和田古道」(十和田参詣道五戸口道=ぐちみち)の一部が、江戸時代の姿のまま残っていることが分かり、関係者が本格的な調査を進めている。今.....
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 かつて、八戸から霊山十和田への参詣者は、五戸を通り、月日山という霊場を経て十和田湖に至った―。昨年、この「十和田古道」(十和田参詣道五戸口道=ぐちみち)の一部が、江戸時代の姿のまま残っていることが分かり、関係者が本格的な調査を進めている。今年も4、5月の計6回現地入りし、十和田市の月日山入口から惣辺までの約12キロで古道が7割残っていることや、戦国時代末期の城館跡を確認した。他にも新たな発見が相次いでおり、古道の歴史的価値が高まっている。[br] 調査は、同市のNPO法人十和田歴史文化研究会(小笠原カオル理事長)と十和田湖伝説の伝え方を考える会(中川一樹代表)、中世史を専門とする弘前大名誉教授の齊藤利男氏らが実施している。[br] 十和田湖には中世以来、五戸七崎の永福寺(現在の八戸市豊崎町上永福寺にあった寺)を起点にした道があったという。五戸口道はこの道を基に、盛岡藩主南部重信が五戸代官木村秀晴に整備を命じ、1693年に完成させたもので、当時は「十和田新道」と呼ばれた。[br] 数年前から小笠原理事長らを中心に、十和田湖への参詣道・十和田古道にスポットを当てようとする動きがあった。その中で昨年6月、初めて現地を見た齊藤氏によって、これまで関係者が古道だと思っていた道が、実は戦後にできた馬車道や林道で、本来の古道はそれらに並行するように残っていたことが判明した。[br] 同11月、関係者が本格調査に着手。残存状態の良い古道はV字型の堀道状で、上部の幅が3メートル、底部が1~1・5メートル、深さ3メートルであることが分かった。[br] 今年の現地調査は4月4日に再開し、古道の残存状況や点在する鳥居や灯籠などを確認した。[br] 5月23日の調査では、古道に沿った山林の中に、土塁や堀、平場などから成る城館の遺構を発見。その形状から齊藤氏は「戦国時代末期のもので、津軽からの敵の侵攻を防ぐ目的があったのでは」と指摘した。[br] さらに、この城館跡から十和田湖側に1キロほど離れた場所にも、二つの人工的な平場が見つかった。道を監視し、城館の機能を補強する「見張り所」と考えられるという。[br] 齊藤氏は、これらの存在は南部藩の軍事機密だったと推察し、「この道は津軽から南部へつながる。戦国時代から江戸時代初めは重要な軍用道路でもあったのでは」と分析している。[br] 他にも今年の調査では数々の発見があり、調査チームは結果をまとめ、来年1月に開く報告会で成果を披露する予定だ。[br] 小笠原理事長は「道は人間が作った文化。重要な歴史遺産として認識し、詳細を掴み、古道の復興につなげたい」と展望を語る。見つかった城館跡を調べる齊藤利男名誉教授(左)ら関係者=5月23日、十和田市